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BOXINGTIMES LEGEND vol.1
日本初の世界チャンピオン白井義男に捧げる。
2014.12.20 update

legend01_2白井義男が日本に新たなページを開いたのは1952年5月19日だった。世界フライ級王者・ダド・マリノに判定勝ちし、世界王座を日本に初めて齎した日である。
43年11月にプロデビューした白井は8戦全勝5KOの素晴らしいスタートを切った。その後、戦争が激化。白井も戦闘機の整備兵として召集された。青森で終戦を迎え、46年にリングに復帰。しかし、戦時中に痛めた腰が悪化。46年11月には串田昇に2回TKO負けするなど低迷していた。そんな白井に着目したのがGHQの資源局勤務の生物学者・アルビン・カーン博士だった。日本人には珍しいストレートパンチャーでリーチもあり、足捌きも華麗な白井が目を惹いたのだ。

最初はアドバイスする程度だったが、やがてカーン博士は自分の生涯を賭けてみたい気持ちになる。日本中が貧しかった時代に家を買い与え、ステーキを食べさせた。49年1月、花田陽一郎を5回KOに下し、日本フライ級王座を獲得。同年暮れには堀口宏を判定に下し日本バンタム級タイトルも奪取。

こうして完全に蘇った白井に博士はさらなるテーマを与えた。世界王者との対戦である。51年5月のマリノとのファーストマッチは惜しい判定を失ったが、マリノの地元、ハワイに遠征しての再戦は7回TKO勝ち。その直後、博士はマリノのマネージャー・サム一ノ瀬と交渉しタイトル挑戦権を取得する。世界戦の会場は5月19日の夜の後楽園球場である。皇族や外国大使らが貴賓席で見守る中、ゴングが鳴った。

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マリノの下から突き上げるような左ストレートが白井のアゴの先端を捕らえたのは7回だった。白井の目が宙を彷徨う。のちに白井はこう告白している。「あのパンチを食って意識を失ったんだね。なんとかコーナーに戻ってきた私に博士が“ヨシオ、起きろ!”と言っているのが遠くから聞えてきたんだ」。その声で目を覚ました白井は8回をフットワークを駆使して切り抜けると9回から反撃に転じる。減量に苦しんでいたマリノは終盤に差し掛かるとにわかに動きが緩慢になった。10回からは白井の独壇場だった。

試合が終ったとき、判定結果は明らかだった。少しの時間が過ぎ、白井の手が高々と挙がった。日本にとって記念すべき瞬間だった。白井の快挙は敗戦に打ちひしがれていた日本人に勇気を与えた。しかも勝った相手は日本が負けた当該国のアメリカなのだ。

世界を制した白井はリターンマッチでマリノを判定に退け、2度目はダニー・カンボを3度目はテリー・アレン、さらにレオ・エスピノサをそれぞれ判定に下し、当時のフライ級の記録である4度の防衛に成功。54年7月のアルゼンチン遠征でノンタイトル戦で引き分けた無名のパスカル・ペレスに5度目の防衛戦で敗れるまで2年半に渡って世界王座に君臨した。翌55年5月、ペレスとのリターンマッチで5回KO負けした試合を最後に44勝(15KO)8敗2分の戦績を残して引退した。

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戦前から戦後まで世界統括団体との交流もなかった日本ボクシング界は、GHQの中枢にいたカーン博士によって、世界への道が開かれたことになる。引退して日本ボクシング界を指導する立場になっても孫のような年齢の記者にも敬語を使うような謙虚な人柄だった。白井は言う。「世界チャンピオンになった時、カーン博士が4万人入った後楽園球場の一番安い席を指して“ヨシオ、貧しい生活費の中から工面して駆けつけてくれた人たちの気持ちを忘れてはいけない。謙虚な気持ちを失うことはあの人たちへの裏切りだ”と言ったんです」。カーン博士のその言葉は白井の心の姿勢になった。だからこそ白井は誰にも優しく謙虚だったのだ。

「日本の若者のお手本になれ」という教えを守り通した白井は家族を持たなかったカーン博士の遺産を相続、2003年12月26日、肺炎のため80歳の生涯を終えるまで清廉な人生を送った。

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